ESSAY


−独創的研究とは−

 「独創的研究とは何か」という問いに対して既に多くの方々がそれぞれに深く共感を覚える回答をネット上に提示されておられ、これ以上付け加える必要はないように思える。しかし、なぜかこの問いが頭の奥に引っ掛かっていて、ときどきふとその答えを考えている自分に気づく。何故こう気になるのだろうと考えてみて、思い出した。「独創的」であるとういうことは私が物心ついた時から価値の尺度であり、生きていく上での指針であったのだ。小学校の図書室でダリを見たときに何かを感じ、中学生になってビートルズの曲を聞いたとき「独創的」の意味が実感として理解できた。それ以来、クリムゾンやイエスといったいわゆるプログレッシヴロックと呼ばれる音楽にのめり込むうちに、「独創的」であることがすべての価値基準になっていた。大学時代は周囲に同化することで安らぎを覚えたが(音楽はAORだった)、研究の道に入って、忘れていたこの絶対価値「独創的」を次第に再認識するようになった。以来「独創的」であることを常に意識してやってきたつもりだが、若い頃感動したほどの「独創的」な仕事にはまだ遠く、とりあえず結果を求められる日々の研究の中では「独創的」という命題を忘れがちである。
 私的な話を持ち出して恐縮だが、こんなことを書いたのは、多くの研究者は「独創的」な作品に接して深く感動し、「独創的」な仕事をしたひとに憧れた経験をお持ちだと思うからである。議論するまでもなく、「独創的」の意味を「美しい」の意味と同様、感覚的に理解されていると思うからである。問題はどうすればその「独創的」な研究ができるかである。
 「独創的」という言葉には「独自性」(original)と「創造的」(creative)、さらに「独力」*の3つの意味が込められていると思う。絵画や音楽ならこの3つを達成している天才たちを想い浮かべるのは難しくないが、研究となるとこの3つをすべて満足できるような仕事は現在では極めてまれではないだろうか。最初から「独創的研究」をやろうと思っても凡人にはできるものではないのである。自分の心に湧きあがった誰も見向きもしないような疑問から研究を始めるのはまさに理想的だが、そういうアイデアはなかなかみつからないし、現状ではそういう研究にはまず研究費がつかないし、また、先例のないことだと方法論から模索して時間がかかりなかなか結果がでない。結果がでないと評価されないので、ますます研究費がつかず、ポスドクや大学院生は先が見えずやる気を失うという事態に陥りかねない。ゴッホの例を出すまでもなく、後に「独創的」と賞賛される仕事を残した人でも、存命中はほとんど評価されず、失意の日々を送った芸術家も少なくない。それでも後に評価されたからいいようなものの、生物学研究の場合、結果は創造するものではなく既に生物に存在するものだから、それが「独創的」だとは限らない。運良く永年の疑問が解けたとしても、それがoriginalでもcreativeでもなく、既成の概念や分子で説明できるということだってありうる。
 そんなに否定的に物事を考えてはいけないとお叱りを受けそうだが、私はもちろん、一定の期間の研究費さえ保証されれば、誰も見向きもしないような独自の研究をやりたいと切望しているものである。流行など無視して、成功を信じて自分の思うままに疑問を追求したいのである。それには、多くの人が既に指摘されたように、研究体制を改革して、そのような研究にも数年間にわたって研究費を与えるような制度が確立されなければならないと思う。また、先見性をもって独創性を見極める評価体制も必要である。さらには、科学界が、あるいは社会全体が人まね物まねを軽蔑し、独創性を賞賛する雰囲気になってほしいと思う。
 それでは、現状では翌年の研究費も保証されない私たち普通の研究者はどうしたらよいのだろうか。どんなに困難でも「独創的な研究」を成し遂げたいという意志を持ち続けることが重要であることは当然である。本庶先生の6C (curiosity, courage, challenge, confidence, concentration, continuation) 、山岸先生のenvision, endeavor, and enjoy、黒崎先生の知力・情熱・技術力、山村先生の「夢見て行い、考えて祈る」、これらはすべて研究を行ううえでの重要な指針であり、肝に銘じておくべきである。それはわかっていても、現実には何をどうすればいいのか迷っているひとは多いと思う。経験の浅い私なりの考えはこうである。「独創的研究」の芽は「それほどでもない」研究の過程に隠れているのではないだろうか。常に目を見開いてその芽を見つけだし、独創的な発想で育てれば、そこから新しい概念が生まれるかも知れない。良い例えかどうか疑問だが、エンハンサーに結合する転写因子NF-kBの発見自体は新しい発想に基づくものではないが、それに続くIkBの研究からユビキチン化・蛋白分解を介した新たな情報伝達の機構が明らかとなったではないか。また、自分の予想に反する結果から新しい発見が生まれることも多い。こう考えると、大きな研究費が自由に使えるようになるまでは、とりあえず研究費のもらえそうな皆の注目するようなことから始めるのもいいと思う。ある程度確立された方法論にのっとって、まずは2,3年以内に結果を出せるような目標を設定して、とにかく好きな研究を(もちろん、ひとと同じことをやっては無意味だが)精力的にやりながら、「独創的研究」の芽を見逃さないように「独創的」な発想で独自の研究へと育てていけばいいと思う。その際の「独創的」とは、それ以上解説できない、個々人のセンスに基づいた、そして、他の人にはよく理解できない、最上級の意味を持つ言葉である。

注* 「独力」:例えば、多くの研究者の共同研究の場合、それがいかに「独創的」な研究成果を生んだとしても、われわれはその中のある個人を「独創的」な仕事をした人と素直に認めることができるだろうか。またその研究者は心から満足できるだろうか。「独創的な研究とは何か」を考えるためには、「独創的」の中の「独力」にどれだけの価値を与えるかは結構大きな問題である。個人的には、これまで誰も考えつかなかったアイデアを思いついた時の快感が研究の原動力だと思うので、この「独力」の価値は大きいと思うし、多くのひとがpriorityにこだわる理由も同じだと思う。

(2000年10月、日本免疫学会JSI NewsLetter −ネットによる公開討論会 ”独創的な研究とは”- に掲載)

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