ESSAY


私が生命科学研究者となるまで
- 研究者を志す医学部学生へのメッセージ -

 これまでの人生(といってもまだそう長くはないが)を振り返ってみて、重大な岐路に立たされた場面で私は自分の確固たる意志で方向を決めたという記憶があまりない。いつも何か偶然や誰かの助けによって、今まで導かれてきたような気がする。そもそも、佐賀医大に入学したことからして、受験の年に地元に医大が開学したという偶然と、医学部など念頭になかった私に佐賀医大受験を薦めてくれた高校教師の存在なしにはあり得なかった。研究者への第一歩となる大学院進学の時も、博士課程開講のために必要な入学者数に希望者数が達していなかったという事情があって、入局先の外科の久次教授が私に進学するように指示されたのである。
 あまり講義に出席せず基礎医学をほとんど理解していなかった私は、大学院では最初は丁稚奉公と心に決めて、免疫学教室渡邊教授の言われるがままに働いた。最初は、論文どころか皆が何を言ってるのかすら理解できなかったが、手を動かし、わからないことは訊き、努めて議論に加わり、辞書を片手に論文を理解しようともがいているうちに、皆のやっている研究が、さらには免疫学や分子生物学が少しずつわかってきた。われわれ院生は、一年ほど助手や研究生について基礎的な技術を教えてもらった後、徐々に独立して自分のテーマを持つことができた。そして、自分で実験を組み立て、その通りに手を動かし、結果を得てそれを解析するということができるようになっていった。そうなると、仕事はハードであったが、やる気が出て毎日楽しかった。こうして、誰も知らなかったことを発見する、あるいは、何か新しいものを創り出す、そしてそれらが真実として人に認められ尊重されるという、今まで味わったことのない喜びを知ることになった。当時私がクローニングしたHS1という分子は、後にリンパ球の抗原受容体シグナル伝達因子であることがわかり、私はいまでもその研究を続けている。
 大学院2年目に渡邊教授が九州大学に転任となり、私は国内留学の形でついていった。派遣期間は2年以内という規約があり、4年目に私は外科に戻るよう久次教授から命じられた。ここで、研究を続け卒業後留学するか、それとも外科に戻り研修医を始めるかの選択を迫られた。久次教授は「君の能力では基礎医学研究は無理だ」と明言され*、またある先生は、「大学院後はお礼奉公として病院勤めをするのが当然で、すぐ留学などけしからん」と憤慨されたそうだが、一方で、ある講師の先生はこっそり私を呼び、意外にも「臨床はつまらないことが多い。研究をやりたいのなら今そうすべきだ」という意味のことをおっしゃった。私は大いに悩んだ末に、九大に残り研究を続けることを決心した。初めての自分の意志での決断であった。
 当時の渡邊研究室は免疫グロブリン遺伝子の転写制御の研究を行っており、免疫学のみならず分子生物学の分野でも知られるほど高いアクティビティーを誇っていた。おかげで私も論文を出すことができ、学位も無事取れた。その後、渡邊研の助手にして頂き、その年の末、ドイツのケルンへと旅立った。この留学先も渡邊先生が選んで下さったもので、私自身はKlaus Rajewskyという留学先の教授の名前すら知らなかった(現在、世界でRajewskyの名前を知らない免疫学者はいないだろう)。
 ケルンでは、胚性幹細胞(ES細胞)を用いてgene targetingを行い、その変異させた遺伝子を有するマウスを作るという、1988年当時世界でもまだ成功例が無い最新の仕事をやることになった。いくつかの非常に難しい技術と時間、それに多分に幸運が必要な大変な仕事であり、当時ポスドク殺しだといって欧米のポスドクはやりたがらなかった。しかし、任意の遺伝子の変異マウスを自由に作れるという夢のような話で、うまくいけば世界的に注目されることは間違いなかった。最初この話を聞いて、私はラッキーだと思った。なぜなら、マウスができるまで(早くとも1年以上)は特に免疫学の知識は必要なく(当時私は遺伝子のことはある程度知ってはいたが、免疫学はほとんど知らなかった)それまでに免疫学の勉強ができるし、誰もうまくいってないのなら私も同じスタートラインに立っているわけだし、また、運が良ければヒーローになれるのだ。そして私は、この留学中に有名雑誌に2報論文を出すという目標を定めた。1報だけでは単に運のいい人としか評価されない可能性があり、科学者として確立するためには十分でないと考えたからだ。
 今思うと、目標なしには成功はないと実感する。結局、私は2年半の留学中に2種類の遺伝子変異(ノックアウト)マウスを作製することに成功し、それらの仕事でNature2報、Cell1報、その他多数の共著論文を出すことができた。そしてノックアウトマウスの報告をした最初の日本人となった。もちろん、これらはKlausをはじめラボの人々の多大な指導や協力の賜であり、ラボでうまく人間関係を作れたことも幸いであったが、何といっても運が良かった。別の遺伝子で同時期に始めた二人のドイツ人学生はいくつかの段階でうまくいかず、何度か初めからやり直したが、私は全ての過程を一回でクリアできた。成功の鍵はと尋ねられたら運のみですと言ってもいいくらいだが、ひとつ付け加えるとすれば、つらいことは一度で済ませたいと思って、いくつかのステップを注意深く確認しながら着実に進んでいったことだろう。
 帰国後九大に復職して3年で助教授にしてもらい、4年目に現職に就いたわけだが、一応研究者として認められ、生命科学の世界でこれまでやってこれたのも、留学中のこの幸運な仕事があってのことだと思う。数少ないチャンスをものにするか逃すかで人生が大きく左右されると思うと感慨深い。
 佐賀医大を卒業して早くも16年の歳月が過ぎ、齢40にとどいてしまったが、不惑どころか迷いの多い昨今である。依頼された講演内容は「どうやって道を切り開いてきたか」であったが、自分の歩んできた道に確信などなく教訓や指針となるようなことはないので、ただ、先例のない一期生の私が基礎研究の道に入り、研究者として歩んできた経験を語るにとどめた。卒後研修の後入局し、臨床医となる道しか想像できない学生さんに、それ以外にも、もっとexcitingでchallengingな道があることを知って頂けたら幸いである。

付記 * 人を指導する立場になってみると、これは、基礎研究の道に進むことをどれほど強く決意しているかを私自身に問わせるための言葉であったということがよくわかる。私はこの言葉のおかげで、基礎研究に進めばひとの何倍も努力しなくてはいけない、そして、この忠告を聞かなかった以上もう臨床には戻れないという覚悟をせざるを得なかった。私の人生に決定的な影響を与えたこの言葉に、そして、久次先生の後進に対する愛情に心から感謝している。

(1999年8月、佐賀医大同窓会講演原稿)

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