アスタナ(計画)
設 計:黒川紀章
所在地:カザフスタン新首都
竣工年:2030年(予定)
 




 

 川向 黒川紀章さんに、これまでの設計活動と同時に、本などに書かれた思想についてお話を伺います。
 たくさんの著書を拝見すると、メタボリズム、メタモルフォーシス、農村都市計画、カプセル、中間領域、道、路地、縁、利休ねずみ、花数奇、さらには地域主義、文化的アイデンティティ、アブストラクト・シンボリズムといった非常に魅力的な概念が出て参ります。どれも、言い出された時期はすごく早く、私たちあるいは学生たちが、いろんな意味で影響を受けている。あまりに早いので、影響を受けているのを、本人が意識していないことすらあるように思えます。  
 たとえば、最近学生たちの設計を見ていますと、都市を再構築していくという考え方が強く表れているような気がします。彼らの模型とかスケッチなどを見ると、それが、なんとなくメタボリズムの都市に近い。積極的に都市を再編しようという意識が強くなっていて、それは、当時のものに近いように思うのです。その背景には、全体的に都市を再構築しなければ、日本の社会全体がだめになるのではないかという危機感すらあるようにも感じられます。この危機感が、当時のものに近い。  
 1990年代にヨーロッパの都市や農村がずいぶん変わったような気がします。彼らのライフスタイルが、ずいぶんと変わった。レジャー、ツーリズム、そういうものと、交通 システム、都市と都市の関係、都市と農村の関係といったものが、うまくシンクロして、良いほうに大きく変貌している。日本はどうでしょうか。  
 まず、学生時代からのお話をしていただいて、メタボリズム、共生、そしてその後の展開をお話しいただきたいと思います。  


都市をつくる建築家へ

 黒川 まず、最初に私自身がどういう時代に生きたかということを、いくつか話します。私は親父が建築家でした。ちょうど私が小学校の5年生のときに終戦になって日本が負けました。私は名古屋に住んでいたわけですが、実際には疎開をして名古屋から少し西のところに住んでいました。当時名古屋は200万都市だったと思いますが、それが何日かの焼夷弾の爆撃できれいに灰になったわけです。そのめらめら燃えるのを見ていました。そしてしばらくして敗戦になって、親父と一緒に焼け跡に行ったのですが、親父がつぶやいているわけです。「ああ、なんてことだ、結局オレたちがまた一からつくるしかないな」と。それを聞いて私はやっぱり建築家になるしかないなと思ったのです。それまでは建築家が都市をつくるというふうに発想ができなかったのです。都市というものは何百年あるいは何千年もかかってできてくるものだから、都市を建築家がつくるという発想そのものが、小学生でもあったし、頭の中に浮かばなかったのですが、焼け跡に立って、これからつくっていかなければいけないと言われたとき、「本当だなと。ゼロだから、ないところからつくるしかない。それを建築家がやる。すごいことだな」と思いました。それで建築家になるぞと決めたのです。  

日本文化への関心
 大学を京都に決めたのには、二つ理由があります。一つは焼け残った都市に行こう、と。東京も名古屋も広島も、日本の大学のある都市はほとんど焼け野原ですから、そういうところへ行ってもしょうがない。そうすると焼け残ったところ、やはり京都大学と思って、最初から京都大学しか頭の中にありませんでした。それが決定的になったのは、私たちの世代に共通 してあるのかもしれませんが、われわれは「日本という国はだめな国ですよ、日本の文化なんて役に立たないんですよ」と真正面 から言われて生きてきた。つまり、戦争で負けた日本というのは、非常に幼稚な国である、と。だから、アメリカで、先進国の進んだ文化と学問を学び、日本にもアメリカあるいはヨーロッパのような素晴らしい建築や都市をつくれるようになりなさい、と。そういうものの言い方で教えられていたわけです。それに対する反発がすごく強かったのです。  
 確かにアメリカの文化はきらきらしていて魅力的だし、ヨーロッパの文化は明治以降日本人がずっと尊敬してきた文化ですから、私にもその気持ちは十分にあって、小説を読むのでも演劇を見るのでもヨーロッパのものにずいぶんと影響を受けています。それでも日本の文化なんてだめだと言われると、むらむらっときて、そんなはずはない、と。やはり、そんなふうに日本を全否定してアメリカへ行って勉強するということだけはしたくない。その気持ちがもう一つあって、京都へ行く。そして日本を見直す。日本文化の真髄である京都・奈良に行って、日本を見つめる。反発からそういう気持ちになって、それが私の一生を決めました。ずっと現在に至るまで「日本」というものが私の思想の中に筋として通 っているのは、日本の文化とは何かというのが常にあったからです。ヨーロッパ中心主義に対して何か別 の視点があるのではないか、と。  
 実はそこから「共生の思想」が出てくるわけですが、ヨーロッパの合理主義的二元論で世界中がその考え方を統制される。それはすごいことだが、もう一つオルタナティブがあるのではないか。そのためには、日本というかアジアというか、否定しようとしている自分たちの文化を基盤にして、確かに負けてしまったばかりの日本にいるとすごくみじめな感じがするわけですが、将来、世界に影響を与えることができるように、新しい運動が必要ではないか。そういう気持ちが非常にありました。

ともいき仏教と唯識
 そのとき初めて、中学と高校時代に教えられた「共生(ともいき)仏教」という言葉が浮かびました。私は名古屋の東海学園という仏教学校に行きましたが、そこで学園長が芝の増上寺の管長でした。東大のインド哲学を出た仏教思想家で、共生仏教というのを大正11年に始めた人です。この「共生(ともいき)」という言葉が、ずっと私の中に残っています。それを漢字で書くと「共生」になるわけです。一つはそういう仏教のルーツがあり、一つはあまりにも全否定された日本に対する私自身の思い入れがあった。それが小学校5年のときから筋金入りで私の背骨にぐっと入っているわけです。  
 よく大学院のころ磯崎新さんなどと議論すると、彼は非常にずるいところがあって(笑)、あるとき日本を語るけれども、基本的には、日本を語るというのは臭い、右翼っぽい、あるいはモダンじゃないと考える人です。その体質は、日本のあらゆる学問の中にあります。文学、建築、美術、音楽の中に、日本というものを志向することはダサイという発想がずっとあります。特に終戦後間もない頃には強かった。それに棹差して日本を考えるというのは、なかなかしんどい。特にわれわれが学ぶ教科書はモダニズム一辺倒ですから、その中には「日本」のかけらもない。     
 京都大学へ行って、「共生(ともいき)仏教」というのは何だろうと、初めて考えるようになった。そして、唯識思想というインドの思想に出合って、かなり深く研究するようになったのです。大学4年間は唯識思想を研究する時代でした。  

生命と生物学への関心
 東大に移って大学院に入るころに、私が一番関心を持っていたのは、生物学です。生化学と言ってもいいかもしれない。建築の雑誌と自然科学、生物学を同じくらいの量 、読んでいました。1958年にコルビュジエたちのCIAMの運動が終わります。1958年には、私は大学院の学生でした。コルビュジエたちが「オレたちの時代は終わった」と言って、ピーター・スミッソンを経由して、紙1枚の小さな「遺言」のコピーが、私のところにも回ってきました。急に1958年に、おまえたちの時代だと言われたわけです。そこから、私の建築家の時代が始まります。1958年から始まる。だから、目標を失ったところから、私は建築家になったのです。CIAMがなくなって、アテネ憲章とかインターナショナル・スタイルとか、われわれが神様みたいに思っていたもの全部について、もう役に立たないよと、本人たちが言っているわけですから、どうしようかと。  
 一体彼らが何をやったのだろうか。一つだけ言葉でとらえるとすれば、それはやっぱり機械だったのではないか。一つの言葉で表現するとすれば、コルビュジエ、グロピウス、CIAMの連中が目指したものというのは、機械の原理だろう。それに対して、次にどういう時代がくるか。一言で言ったら、単純に機械と違うものは何か。当時生物学に興味があったから「あっ、それは生命だよ」と。機械の時代が終わったら生命の時代だ、と。単純に私は仮定しました。そして1959年に書いた論文が、20世紀後半から21世紀にかけて機械の時代から生命の時代へ時代は動くということです。1958年から今日に至るまで私がやっていることは一貫して、生命の原理の建築というのは何だろう、生命の原理の都市というのは何だろうということです。45年間それだけをやってきたわけです。  
 生命の原理ということを、ぽんと自分で決めたわけですから、その中で重要なことを、次から次へと考えればよかった。そもそも「共生」というのは、生命の原理です。機械ではない。最も生命に重要な原理です。「新陳代謝」というのも、生命の一番重要な原理。それから「リサイクル」というのも、生命の最も重要な原理。「エコロジー」というのも、生命の重要な原理。そして情報ですね。「情報」というのも、生命の最も重要な原理。「曖昧性」というのも、生命の最も重要な原理。そのように次から次へと、生命を考えていくのに一番重要なコンセプトは何かと、一つひとつ取り上げて考えてきたのが、この45年間です。生命の原理の時代が来るかもしれない、情報が非常に重要視される時代がくるかもしれない、と言い続けてもきたわけです。そしたら、そうなった。  
 私が『情報列島日本の将来』というのを35年前に書いたときに、情報という言葉は日本にまだありませんでしたから、情報というのは陸軍情報部、つまりスパイが日本列島にうようよしているということを書いている本なのかと、みんな思ったらしいです。そのくらい、まだ誰も情報という言葉を使っていないときに、情報というのをキーワードにしていたわけです。

黒川紀章の都市イメージの基本―「メタモルフォーゼ計画1965」のスケッチ(写 真右) 
 これは1965年のスケッチですが、見たら分かるとおり、全然機械と違います。生命的です。これは植物細胞をヒントにしています。これが未来都市だということで、このスケッチはポンピドーセンターの永久コレクションになっていますが、これがクラスターです。リニアに成長していける。だから尻尾も頭もない。中心がない都市です。中心がないというのが、生命の特徴です。ヨーロッパの都市は、中世もそうだし、ルネッサンスもそうだし、バロックの都市もそうですが、中心がありそこに広場があって、そこから放射状に広がる。つまり秩序が完結しているわけです。ところが40年前に私が考えた未来都市は、左も右も開かれていて、周囲の環境と常にインタラクティブに対応せざるを得ない。しかも中心がありませんから、まるでナメクジのように、その環境の状況によってこちらが衰えたり、真ん中が活発になったりする。ヒゲみたいに描いてあるのが、例えば住居地域と考えてください。普通 は住居地域の中心に幼稚園とか小学校とか、核、コアになるものができます。しかし、このスケッチが意味しているのは、中心がない都市ですから、全体に中心がないだけでなく、一つのクラスターをとっても中心がない。外側に小学校とか幼稚園あるいはショッピングセンターなどが、まつわりついている。それは成長することにリニアにつながっていきます。だから「センターの(ある)時代」から「リニアあるいはネットワークの時代」へということを1965年、そろそろ40年前になるときに言いました。
 ネットワークという考え方について、先月私とジャン・ヌーベルとクールハースが北京で審査員をやって、クールハースは、この当時から私のやってきたことを非常に深く研究していますから、「結局時代はおまえの予言どおりに動いてるね」と言っていました。このようなイメージの発想というのは、いま都市を考えるときの主流になっているのではないでしょうか。

「東京計画1961−へリックス計画」 
 これは、1961年のへリックス・シティというコンセプトです。どうしてこんな計画を作ったかというと、さきほど言ったように、私は生物学、生化学に非常に興味を持っていたので、当時『ネイチャー』という雑誌を見たら、ワトソンがDNAの構造は二重螺旋だと言って、この図を出していました。本当に私は感動しました。人間の命にこういう具体的な形があるというのは想像もつかなかったので。神がつくったと教えられてきたわけです。なんだ、すごいなと。こういう水平と垂直だけではない秩序が生命の秩序の中にあるのだったら、やっぱり都市だって垂直と水平だけのコンペイトーみたいな都市ではない都市、もっと複雑で螺旋になっているような都市があるのではないかと、これを構想しました。
 これは600mで、最近9・11のWTC跡地に建てる計画案で坂茂君がえらくよく似たのをやっていました。それからフォスターも最近しょっちゅうこの二重螺旋をプロジェクトでやりますが、フォスターなんかは学生のときによく私のところに通 って来ていましたから、これに非常に強い印象を受けています。これはメガストラクチャーの典型です。
 二重螺旋と中心の柱、これはエレベーターです。それと下の港。その間に渡っているのは人工土地です。そういうインフラをつくって、建築はその上でみんなばらばら自由に、3階建てであろうが4階建てであろうが、つくればいいではないかということです。だからここに既に、長くもつもの、つまり世紀を超えて200年もつ土地のようなものと、その上でどんどんメタボリックに建てたり壊されたりして動いていくものとを、区別 していこうという考え方が出ています。それと同時に、これはどこに住んでいても日当たりが良くて、どこに住んでいても風が通 る。下が海ですから、どの家からも釣り糸が下げられる。だから、自分の家で魚を釣って食える超高層ビルです。


最近のプロジェクト(1)−中国での都市づくり   

 川向 関連して、最近のプロジェクトについてご説明ください。

 黒川 コンペで取ったのですが、中国で、京都と同じ大きさの都市を設計しています。普通 はマスタープランをつくったら、それで終わりですが、道路の設計も湖の設計も公園の設計も、主たる建築の設計もということで、都市全体をこれから設計していかなければいけないんです。ここは鄭州というところで、現在300万の人が住んでいます。ここの歴史は7500年、中心にある城壁は3500年前のものです。これ(北のほう)が黄河です。この辺(北のほう)は、夏とか殷とか周とか中国の古代都市があった場所です。中国の最も古い都です。ここが河南州の州都です。
 河南州というのは1億以上の人がいますから、東京みたいなものです。どんどん人口が増えるので、田んぼの中に150万人を収容する都市を設計するというコンペがあって、私の案が採用されたわけです。私の案はよく見ると、こっちが山で、こっちが川で、そこの間に34の川が流れている。その中の二つの代表的な川をまずクリーンにする。今のどぶ川を、飲めるくらいきれいな川にしましょう、と。一気にきれいになっています。そして、ここに中国最大の人工の湖を掘りましょう、と。名前は竜湖と名付けました。その周りに低層の都市をつくる。  
 これが中心の部分ですが、これが竜湖です。この周りに都市がある。3本の運河も私が人工的に計画したものです。そして元の飛行場の跡を使って都心をつくる。これもまた環状で真ん中が抜けている。今どんどん工事か進んでいます。ここで私がやっているのは、川の両側を緑化してビオトープ化して、いろんな生物がここを通 る生態回廊にしようというコンセプトです。ですから、私が自然と言っているのは、緑とか山とか湖だけでなく、そこに住んでいる人間以外のいろんな生物と人間とが共生できる。そういう意味も含めた共生です。もちろん、こういう計画というのは中国でもないわけですから、すごく抵抗を受けました。共産党の38歳の書記が、どうしても実現しようということで、サポートしてくれています。ですから、この湖をいよいよ掘り始めます。面 白いのは、この都市では地下鉄がここを通ります。それからモノレールが2本通 ります。ものすごいハイテクの交通機関を入れます。ところが、ここの交通の25%は自転車です。だから、25%の交通 量を自転車でまかなえるように、自転車専用道を至るところに走しらせる。そして、15%は徒歩です。合わせて40%が自転車と徒歩という都市をつくっています。残りの14%が自動車。あとはバスです。そういう目標に対しても、抵抗があります。全部車を持つようになりたい。たけど、それに抵抗して実験してみましょうよ、と。本当に自然と共生できる都市をつくるために、歩いて快適、自転車で快適という都市にしないと、全部モノレールと地下鉄にして「自然と共生しましょう」と言っても、感ずることはできないでしょう。そういうライフスタイルを、共産党の人たちだけでなくてあらゆる審議会・議会・市民団体で議論しながら、案を通 していくには大変な時間がかかりました。とにかく原案どおり、いま進行中です。  
 これが環状都心です。ここは高さが120mまで建てられる。真ん中は公園です。この都心、向こうにある副都心以外では、3階建て以上はつくれないようにしています。だから低層高密度都市です。これの手本が実は江戸です。  
 ですから、コルビュジエの「輝ける都市」とは全く違うコンセプトで、基本的には網の目になった細い自転車道と歩道でつくられていく都市です。問題は、それで150万の都市をつくらなければいけない。小さな村ではないので、大変な実験で、それを一つひとつ高速道路のインターチェンジに至るまで設計しているわけですから、頭の中が爆発しそうです。こういう都市を、私はいま中国で三つやっています。  

 川向 その考え方は、「農村都市計画」(1960年)とか「西陣再開発計画」(1962年)の計画と共通 していて、変わっていませんね。都市のあり方、生活環境のあり方に一貫したイメージが感じられます。もう一つ、カザフスタンの新首都づくりについてお話いただけませんか。


最近のプロジェクト(2)−カザフスタン新首都アスタナ(写真左) 

 黒川 ここに20万人くらいが住んでいた小さなアクモラという街があって、昔は小麦を作っていた集積地の街です。フルシチョフがつくった街があって、私はこれを全部残すところから始めた。そして、そこに新しい都市を付け加えて、共生させる。  
 赤い線は、私が残した既存の道路です。黒い線は、私がつくったところです。古い道路は舗装されていない道路です。農村ですから舗装されていない道路です。それも全部使っています。これがまず「共生」です。  
 残っている湖とか湿地帯とか川は、全部保存しました。問題は、この水がどんどんなくなっていくことです。なぜかというと、周りが砂漠化して草原がなくなって、土に保水性がなくなって、地下水が下がって川がなくなる。そこで私が思いついたのは、この都市を本当に22世紀まで持たせるためには、農業しかないということです。この周りは全部農業です。だから農業を主産業とする新首都をつくる。そういうストラテジーがないとだめです。だったら農業を研究しなければいけない。それと土質。なぜ水が減っていくかということを知っていなければいけない。  

 川向 それは、向こうの国の人たちも意識している問題でしょうか。  

 黒川 向こうが私に注文してきたのは、ここは自動車産業、ここはハイテク産業、ここは機械産業と、日本の真似をしているだけですから、だめ、と。そんなのを向こうでやっても絶対発展しない。ノー。最初は皆、なんでと言いました。大統領もなんで、と。だけど私が言っているのは、農業をすることによって保水性を高めて、地下水をもう一度戻す。そして、農業をベースにして森を作る。森ができてくることによって、昔あった生態系が戻ってくる。そこにウサギが帰ってきて、ウサギを食べていたユキヒョウが戻ってくるかもしれない。つまり生態系を取り戻す。それが本当に自然と共生する都市です。
 木を植えたら自然と共生するというのは、ちゃんちゃらおかしいんで、そんなのは共生でもなんでもない。単に植物を植えたということです。本当の共生というのは生態系としての自然と人間が共生することです。生態系を取り戻すというのは、今は砂漠ですから、100年かかります。100年をかけるストラテジーを作る。それを大統領と喧嘩してまでも説得する能力がないと、都市なんて設計できない。  
 だから、都市と建築の新しい関係と言いますけれども、この保存建築(映像)は、私が文化財に指定したものです。ほとんど木造とモルタル塗りのロシア時代の建物が、この古い街に残っています。200棟を私が勝手に文化財に指定して、大統領の許可を得ました。これも木造モルタル3階建ての建物です。  
 これも、そうです。こういうものを全部残しました。だから壊れそうなものでも、今すぐにはお金をかけられないけれども、とにかく将来お金をかけて残せるように、まず壊さない。それは、共生の非常にはっきりした意思表示です。  
 共生とは何か。哲学ではあるけれども、具体的に、今ある水をどうやって守るか、川をどうやって守るか、そのためには、まず緑がなければいけない、というように提案していく。緑といっても、木を植えるにもボランティアをやる人はいないわけですから、農業を産業にすることを考えねばならない。では、農業として何をやったらいいか。トウモロコシと大豆です。なぜかというと、中国では2015年に1億トン不足する。だから、隣のカザフスタンで作って、中国に輸出する。そういうふうに戦略を作ることが、都市をつくり生態系をつくることです。だから、建築という仕事は、思想と実践について言えば、それを何百年もかけてつくり上げるための「きっかけ」を今どういうふうにつくっておくかということではないか。200年かかるわけですから、全部できるわけはない。しかし、そのきっかけをうまく作れば、仮に100年、200年かかっても、それはできていく。  


都市づくりと強靭な哲学の必要性

 川向 戦略の背景にも哲学ですね。共生という思想ですね。そういうものがないと、都市はできない。  

 黒川 そうです。共生の思想というのは、日本文化の根源の思想であって、21世紀の世界はこれしかない。どういうことかというと、今までヨーロッパ、アメリカはすごく世界に貢献したと思います。貢献した根本にある思想はアリストテレスからカントに至る二元論です。それがあったから科学技術が発展した。科学技術が発展するから経済が発展する。そこまでの功績は、ヨーロッパの哲学の勝利にほかならない。だが、それから先の答えがないんです、彼らには。それから先の答えがターゲットにしているのは、もはや経済ではない。文化の共生です。文化の共生というのは、アメリカとイラクの共生ですよ、ということになるわけです。


文化や宗教の共生まで  

 川向 『共生の思想』には、そのことも書いてありますね。民族問題から地域の問題、そして小さな政府の問題についても。  
 
 黒川 そう。強者が覇権主義で小さい文化を滅ぼすのは、ダーウィン理論でいけば、しょうがないということになる。強い種が残るわけです。しかしダーウィンの説ではなくて、正しい進化が共生によって起きるとしたら、そこに賭けてみる。それによって、どんな貧しい国の文化であっても、アメリカ、ヨーロッパ、イスラム、日本、あるいはインドの文化とともに、ずっと地球上で豊かに残っていく。そういう多元性と多様性こそが、実は豊かさである。それがターゲットだと考えれば、すべてのことは解けるでしょう。
 アメリカがイラクにやったことがいかにダーウィン的であるか、つまり近代主義であるか、二元論的であるか、覇権主義であるか。でも、やはりアメリカよりはヨーロッパのほうが思想的に先へ行っていて、共生を目標にしている。クリントンから以前もらった手紙でも、彼は『共生の思想』を熟読して、彼は21世紀の後半になるとアメリカが世界の警察官である必要はなくなるだろう、と。アメリカもまた共生の時代へ入る。だから、おまえのこの本の中では、アメリカをやっつけているけれども、それはアメリカは将来とも変わらないという前提でいっているのであって、実はそうではない。アメリカは50年すれば変わる、と言っている。
 私は、カソリックもやっつけているんです。ローマ法王から、あなたはカソリックを変わらないと二元論で見ているかもしれないけれども、カソリックの二元論は変わります、というメッセージをもらった。そして、その翌年の新年には、ローマ法王が、新年のメッセージを変えました。カソリックはこれから共生の時代へ向かいます、と。そして贖罪の旅に、つまり宗教の共生へ向けて、ほかの宗教を巡る旅に出ます、と。これには、さすがに飛び上がりましたよ。そのくらい影響は大きいわけです。


思想の世界へ、はばたけ 

 黒川 だから、もし共生という思想がそこまで世界を動かしているとすれば、私の考えでは、それなら日本人がもっと貢献できるのではないか。だって、日本の長い歴史の中にある考え方ですから、江戸時代までの日本の考え方をもう一度よく学び直して、それを自分の身につけて世界のために貢献することはできるはずです。日本人が、やっと世界に貢献できる時代がきたのではないか。ヨーロッパ、アメリカが進んでいるから、それを真似しなければいけないと思っている限りは、追いつくというだけで、世界に貢献できない。そういう時代が私の生きている間には来ないでしょうけれども、もっと若い世代は、そういう形で日本の新しい思想を引っ提げて世界へ貢献していくことができるのではないか。だから建築雑誌なんかに書いてあるファッション的なものの見方を捨て去って、もっと世界へはばたいてほしいですね。思想の世界へ、はばたいてほしいと思います。


(2003年6月14日掲載、文責:川向)

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