ヒルサイドテラス
設 計:槇文彦
所在地:渋谷区猿楽町
竣 工:1969年(A・B棟)、1973年(C棟)、1977年(D・E棟)、1992年(F・G・N棟)




 

 川向 槇先生は、1960年代から一貫して、建築と都市をつなぎ、建築で都市をつくる思想と手法を提示してこられました。たとえば「グループフォーム」「歴史的集落」「バナキュラー」「地域性」「リンケージ(結節)」「ジェネティックフォーム」「空間の襞」「奥性」などの一連の概念と手法を示されましたが、突き詰めますと、いずれも最初の「グループフォーム」の思想へと収斂 していくように思われます。先生のゆるぎないスタンスは、常に「グループフォーム」が創作の中枢にあったことと無関係ではなく、「グループフォーム」はその後の思想や手法を生み出す「思想の卵」のようなものだったとも言えるのではないか。私は、このように考えています。本日は、先生から直接「グループフォーム」の思想の誕生と展開について伺えることを本当にうれしく思います。では、まず、その誕生からお話しいただけますでしょうか。


「グループフォーム」の思想化と手法化へ


  最初に私たちが「グループフォーム」と言ったのは、1960年に日本で初めて、当時としては画期的な国際会議「世界デザイン会議」を開催したときでした。当時の日本国内のみならず、ルイス・カーン、ミノル・ヤマサキ、ポール・ルドルフ、スミッソン夫妻などの世界の建築界のリーディング・アーキテクトたち、それに都市計画、グラフィックデザイン、プロダクトデザインまで含む多くのデザイナーが一堂に会して、数日にわたって非常に密度の濃いセッションを展開しました。  
 このときに、世界の建築家がせっかく来るのだから、何かマニフェスト的なものを発表しようではないかということになって、今は絶版になっている四角い本『METABOLISM/1960〜都市への提案』の刊行のために集まったのがメタボリズムのグループです。川添登さんが最年長だということで長となって、菊竹清訓、大高正人、黒川紀章、榮久庵憲司、粟津潔の各氏と一緒に、私もこのグループに参加しました。当時、新宿西口の都の浄水場の跡地開発が話題になりかけていましたが、大高さんと私は、新宿副都心計画のかたちで「グループフォーム」の理念を発表したのです。日本語としては「群造形」という表現を当てましたが。

 川向 この対談の打ち合わせの折に、テーマを「群造形」としてはどうでしょうかと申し上げましたら、先生は、英語の「グループフォーム」のままにしましょうとおっしゃいました。私は、そのお答えを、私自身も望んだことですが、この概念をメタボリズムに過度に結びつけず、空間的にも時間的にももっと広い文脈で考えたいということなのだろうと理解しました。そこで、むしろ、帰国して1965年にご自身の設計事務所を開設されるまで、つまり1960年前後のアメリカ滞在の間に、先生の内部で「グループフォーム」の理念がどう生まれ、思想化・手法化されていったのか、ここに重点を置いて、もう少しお話くださいませんか。


コレクティブフォーム〜3つのパラダイム


  そうですね。教えていたワシントン大学に1961年に戻った私は「コレクティブフォーム〜3つのパラダイム」という論文を書き、1964年には、これを第1章として、『インヴェスティゲーション・イン・コレクティブフォーム』という赤い冊子を出します。この本の第2章では、集合の「リンケージ(結節)」の問題をさまざまなレベルで議論しています。最初のものなどは、タイプ打ちしたものをそのままゲラ刷り、コピーして知人に送ったのですが、その反応は意外に大きかった。グロピウス、ケヴィン・リンチ、ヤコブ・バケマなどが手紙でコメントをくれたのを覚えています。

 川向 その赤本の内容については、すでに先生ご自身が文章を書かれていますから、さらに詳しく知りたい方にはそれを読んでいただくとして、「グループフォーム」との関連で簡単にご説明くださいませんか。 


歴史的集落とジェネティックフォーム

  では最初の、第1章の内容から。1958年夏に、シカゴに本部を置くグラハム基金からフェローに選ばれたとの連絡を受け、次の2年間、中近東・ヨーロッパ・アジアと研究旅行をしたのです。エーゲ海にあるギリシャの群島のイドラの街などを訪ねたのも、この旅行です。たとえばイドラの場合、一つの直方体状の建築を積み重ねて集落全体を構成する手法でできていました。「ジェネティックフォーム」がここにある。ジェネティックなフォームあるいはタイプとしての直方体状の建築を、バリエーションを許しながら横あるいは縦につないで、その街全体が構成される。斜面 に等高線にそって同一の「ジェネティックフォーム」が集合をつくっていく様子が劇的に眺められる例でした。

 川向 直方体状のジェネティックなフォームを、地形を生かして等高線にそって配置するという「グループフォーム」の理念は、帰国直後のヒルサイドテラス計画に、かなり色濃く反映されています。このことは、また、後ほど伺いますが。

  ええ。もともと、「グループフォーム」のアイデアはエーゲ海の島々の街や北アフリカの村落などの歴史的集落と深く結びつくものです。そして、これは、当時すでに関心の急激な高まりを見せていたもう一つのパラダイム、メガフォームとかメガストラクチャーとは対立するものです。1960年前後の私の研究は、「グループフォーム」の視点から「歴史的集落」「バナキュラー」「地域性」といったものがどう捉えられるかを示すものでもあった。地域主義は、その表現に対する理解が、現在でも単体の建物に限定される傾向がありますが、集合的なスケールにこそ、言い換えれば「グループフォーム」のあり方と捉え方にこそ見出される可能性がある、といったことを具体的に分析して指摘しています。このような視点が、ケヴィン・リンチやチーム・テンの人たちに非常に面 白いと評価されたわけです。

 川向 先生は1962年にはハーヴァード大学のグラデュエート・スクール・オブ・デザインに移られ、そこで、学生を含めていろいろな世代の人々とディスカッションをし、建築・都市のあるべき姿をさらに深く考えられた。日本の建築界には、外国産のセオリーを導入して観念的に議論する傾向が根強く残っていますが、先生の場合は、その議論の現場に自らの身体を置いて考えられたことが特徴的であって、これは、「グループフォーム」の思想を考えるときに見逃せない点だと思うのです。当時の議論の現場は、どういうものだったのでしょうか。


ヒューマンに、人間の行動を中心に  

  世界デザイン会議のあった1960年の夏に、私はヨーロッパに旅行して、チーム・テンのミーティングに参加ました。そのときの懐かしい写 真をお見せしますが、ここにいるのがスミッソンと彼の奥さん。それからキャンディリス、後ろに隠れているのが理論家の雄であったオランダのアルド・ファン・アイク、さらにオランダのヤコブ・バケマとイタリアのジャンカルロ・デ・カルロです。これが、CIAM後の新しいヨーロッパ建築界を代表する若手建築家たちで、彼らは1年か2年に一度いろんなところで会合を開いて建築を論ずる。たまたま南フランスの小さな町バニョール・スセーズで行われたときのミーティングに、私もオブザーバーとして参加することになったのです。全く和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気でした。市長の好意で市庁舎の一室を使ってやっていますが、日本のメタボリズムの連中とそう変わらず、当時みんな若くてお金もなくて、どこかのレストランで話をして、そこでいろいろなアイデアが生まれる。チーム・テンもこのスケールの会合を開きながら、だんだんと醸成されていった。これは、ある意味において非常に歴史的な写 真だと思います(笑)。
 アルド・ファン・アイクは、アムステルダム近郊に当時最も注目された孤児院の建築をつくっていましたが、その案もこの会で討論されました。明らかに典型的な「グループフォーム」ですが、彼自身はこのアイデアはアフリカの集落から来ていると言っていました。
 これが、1960年前後の私が体験した雰囲気でした。日本のメタボリズムが、どちらかと言えばメガストラクチャー志向だったのとは、かなり違う。私の立場は、アメリカにいたこともあって、CIAMの非常に単純で教条的でもある都市理論みたいなものに反発するチーム・テンの人たちに近い。もっとリージョナル(地域的)で、ヒューマンで、人間の行動を中心にした新しい都市・建築空間のあり方があるのではないかと考える方向に進んでいったのです。

 川向 私なども、これまで風土とか地域性の問題を考えてきて、いま、その視点から建築と都市をつなぐ思想とか手法を考えようとしているわけですけれども、同じ問題提起が、すでに1960年前後から先生やチーム・テンの人々によってなされていたことを、ある時期に知って驚いた記憶があります。私は最近、20世紀の大きな転換点は1920年前後と1960年前後にあるのではないかと考えるようにもなりました。よく言われる「1970年前後」というのは少し遅すぎて、このズレで重要な動きの評価を誤ってしまうようにも感じています。これまでの先生のお話を伺っていても、1920年前後に確立されるCIAM流のモダニズム思想が、次世代のチーム・テンの人たちによって徹底的に批判されるのは、1960年前後からだという印象を強くしました。アメリカ、とくにハーヴァードの内部では、これに呼応する新しい変化があったのでしょうか。


1960年前後とモダニズム批判

  いま川向さんがおっしゃったようなグローバルな動きに対応する変化がハーヴァードの内部でもあったように思います。おおまかに、大学の内部で発言力をもつ人々が、CIAM世代からチーム・テン世代に代わったと言えるでしょうね。  
 当時のハーヴァードのディーン(学部長)は、コルビュジエの弟子でありCIAM世代の人物でしたが、彼が非常に偉いのは、批判的な立場にあったファン・アイク、バケマたちをどんどん客員教授にして学生の指導に当たらせたことです。ということは、60年代のハーヴァードに関する限り、当時のヨーロッパの若手建築家たちの声が大きくなっていったことになります。しかし、コーリン・ロウ、ピーター・アイゼンマンのようなアメリカの論客たちが登場してくるのもこの時期です。

 川向 ロバート・ヴェンチューリはいかがですか。  

  彼の『建築の多様性と対立性』(1966)ですか。確かにある意味で、この当時、唯一アメリカで生まれた極めてユニークな建築思想だと思います。それまでのモダニズムに対する批判、アンチテーゼとして生まれてきます。

 川向 さきほどから名前が出てくるケヴィン・リンチはどうでしょうか。  

  彼は、まさに都市というものを、それまでの「都市はこうあるべきだ」という立場から、「都市とは何だろう」という、もう少し分析的な立場に変えて、そこから「都市の本質」へとアプローチしていった。著書の『都市のイメージ』(1960)から言えると思いますが、彼は、都市の構造を明確にし、また分析の道具も提供してくれたという意味で、大変な貢献をしましたね。  
 日本でも、「グループフォーム」の根幹にあるバナキュラーなものを、きちんと分析して、建築とか集落の本質を捉えようという考え方が、1960年代に現れてきます。亡くなった宮脇檀さんの集落の研究とか神代雄一郎先生の「間」の研究などにあの時代を感じますし、いずれも、現代の問題としてもなお輝きを失っていない。私が『見えがくれする都市』(1980)をまとめ、そこで「空間の襞」や「奥性」の思想を展開させるときに参照したのも、先行するこれらの研究でした。  

 川向 このように考えていきますと、先生の1964年の赤本も、都市・建築空間の成り立ちを分析して解明するという新しい精神の現れだったことが分かりますが、時代はこの後、ますます分散・離散の方向に進んでいきます。集落としての粘着力を失って、建物が相互の関係もなくバラバラの状態で建てられていく。巨大な都市複合体はその全体イメージを捉えることが困難になり、モノとモノ、人の行為と行為をつなぐエッジ、結節点のあり方が問われるようになって、赤本の第2章で扱われた「リンケージ(結節)」の問題がクローズアップされるようになります。個別 のマス(建物)も重要ですが、それらをつなぐパブリックな性格を帯びたスペースのあり方、つまりリンケージそのものを意識的につくっていかなければならないという時代に入っていきます。 この課題が、ヒルサイドテラス計画では、どのように現れるのでしょうか。 


ヒルサイドテラスとリンケージ 

  1969年に、最初のヒルサイドテラスが誕生します。1棟ではなくて、この2棟から成っているということが重要です。さきほど川向さんが指摘してくださったように、当初私たちは、一つのジェネティックなフォーム、つまり一階がショップでメゾネット・タイプのアパートをつないでいくマスタープランを思い描いていた。ジェネティックなフォームで街並みを形成しようと考えたわけです。少し坂になっているので、ここにペデストリアンデッキがあって、このレベルにショップを配し、その上に住居を置く。ところが現実に完成して、そこでの人々の動きを見ていると、ほんの僅かに道よりも高くなっているだけで、なかなかショップへ行こうとしない。今でもそうです。対策を練って状況は改善されていますが、このとき私たちは一つの反省をしました。それで、同じフォームとかタイプを変形しながら連結するのではなく、時代とその場所に適合することをもっと大切にする。「グループフォーム」を、もう少しゆるやかに解釈して、多少変形するにせよ一つの形態を繰り返すのではなくて、多様な「リンケージ」でつなぐことを重視すれば、形態に厳密な一貫性がなくても、あるまとまった集合をつくることができる。こう考えるようになったのです。この後、6期まで続きますが、形態も表現も変わり、表層も違っています。「グループフォーム」は一貫して生きていますが、その定義は時代とともに変わっていく。変わり得ることが重要で、それゆえに「グループフォーム」が生き続けてきたとも言えるのです。  

 川向 その「リンケージ」の考え方が分かる例がございましたら、拝見できますでしょうか。  

  もともと集落あるいは古い街にあったリンケージは、さきほど川向さんがおっしゃったように、崩壊していく。ところが、少し広く捉えると、やはり存在し続け、また新しいリンケージが生まれてくるかもしれない。私は、そうも考えるのです。  
 ヒルサイドテラスでの「リンケージ」は、人の動きを誘うような仕掛けあるいは構成要素で、たとえば樹木のグリーンも、大小の違った形であちこちに現れるとか、広場も大小のものが連鎖すると、歩いているだけで、なんとなく、まとまりを感じます。また、建物の多くを隅入りにして、街との境界をガラスにしておくと、人が建物に入って行くときに、外の風景と内の風景を一緒に体験することができ、絶えず街の一部だという感覚を失わないで済む。いずれも、形こそ違え原則をリピートすることによって、「リンケージ」を何気なく連鎖させ、それによって、一つの集合体としての全体特性が表れてくることを狙っているのです。  
 私の事務所は今、ヒルサイドウエストというところに入っています。ここの「リンケージ」は分かりやすい。オーナーの朝倉さんと相談しながらやったことですが、もともと私有地で全くのプライベートな場所に、パブリックな通 り抜けの空間をつくったのです。私たちはパッサージュと呼んでいますが、このビル内部を通 り抜ける部分も、朝の8時から夜の10時まで開いています。小さなデリカテッセンがありまして、サンドイッチとかコーヒーを売っている。それからシガーショップがある。こうして、新しいパブリックな空間が発生して、天気のいいときはお母さんたちが子供を連れて来て、食事したりお茶を飲んだりすることもできる。高低差があって、子供たちの遊び場にもなる。ささやかな例ではありますが、「リンケージ」の部分というのは、都市の中でのパブリック性の拡張と深く関係していて、それは、建築のスタイルとか表現の話とは違う、都市と建築との関係性をどう豊かにしていくかというテーマに結びつくものだということを、ひと言付け加えておきたいと思います。

 川向 画像を使って視覚的にご説明くださったので、先生のお考えがよく分かりました。本日は、実に多くの貴重なお話を伺うことができました。どうもありがとうございました。                                            

(2003年4月28日掲載)

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