「時代錯誤」の彼方に

 

もう25年以上前,目黒のアスベスト館という道場の暗がりで, 今はヴィトゲンシュタインを研究している友人と二人で納豆を貪り食っていると,私の箸先の動きをじっと覗き込みながら,舞踏の師匠である土方巽が語りかけてくるのである.「関節と関節の間の骨は一体何をしているのでしょうねえ」「死体は仮の消滅で,風景に似ています」「虫があなたの体の裏側で嘘ついてます」「人間の寸法は,布団の中でピタッと合うんです」.そんな翻訳不可能なやりとりがその頃の踊りの稽古のすべてであった.いま思うに「形式や技術」といったものと対極にあるダンスの「いろは」とは,日常に飼い殺された身体と脳の癒着を一挙に解体消去してしまうことであり,「形のないもの」「消滅したもの」「名づけられないもの」,これら「忘れ去られたもの」一切を,切断された身体の一部として取り戻す作業だったような気がする.生物学を意識したのは,そんな学問から遠く離れた生活のなかで「この毛糸の絡まったような身体を徹底的にほどいてしまうには,どのように編まれているのか知る必要がある」と考えたのが始まりで,そういう意味からも,今は亡きこの前衛舞踏のカリスマとの出会いが,この「Hope」もどきのサイエンスの出発点であり,そこで刻印された身体性をもとにした思考法が,現在に至るまで長らく自分の基礎となっている.

 

 ニワトリなる「飛ぶことを忘れた鳥類」が発生学・免疫学の歴史的一翼を担っていたということは当初驚きであったが,気がついたときは生物学というスタジアムの片隅を周回遅れで走っていたものにとっては,この時代錯誤の遺物に存在する風変わりなファブリシウス嚢というリンパ組織に蓄積された歴史的な細胞生物学的情報こそ,免疫学の本質に通底する多くの魅力的な課題を内包しているように思われたのであり,その当時普及していた分子生物学的言語で語り直されなければならないもののように感じられたのである.例えば,ニワトリの免疫グロブリン遺伝子の多様性形成にはファブリシウス嚢という環境が必須であるが,そのファブリシウス嚢特異的なB細胞多様性形成の分子機構,さらには胎生期にファブリシウス嚢に到達した約104個の前駆細胞がその後の全B細胞レパトアを維持するという幹細胞維持の問題など,これらの古くて新しい課題をていねいに紐解いていくことで,マウスやヒトにも一般化できるような免疫システムに関する新しい概念を抽出できるのではないかと夢想したのである.

 

 忘れもしない1992年のクリスマスイブにMax(Cooper)から届いた手書きのファクシミリを片道切符に留学したアラバマ大学で,念願のファブリシウス嚢におけるB細胞分化機構の解析に着手できることになったのであるが,時代はマウスgeneticsを用いた免疫学隆盛の御時世である.そんな時勢に逆行するかのようなニワトリB細胞の研究に従事しているポスドクはMaxのラボですら皆無で,何年も前に凍結されたファブリシウス嚢B細胞に特異的に反応する抗体を昔の学生のノートを手懸かりに探し出して実験を始めたことを憶えている.「効率や競争」といったものからある意味で無関係な時間が流れているアメリカ南部のレイドバックした空気のなかで2年過ごした間に,John (Kearney)Pete (Burrows)と酒場で討論し,また鳥類免疫の学会でJim (Kaufman)Michael (Ratcliffe)と出会うことで実感したことは,彼らの研究に対する「哲学」あるいは「信念」であり,それが研究を継続・遂行する上でもっとも重要なものであるということであった.

 

 Maxのラボには,アメリカでの学会などの折に多くの日本人研究者の先生方が立ち寄られたが,そのなかでも多田富雄先生,北村大介先生の知遇を得る機会をもつことができたことで,幸運にも日本に帰国してからもニワトリB細胞の研究を継続できることになり,それは現在, BASHというB細胞抗原レセプター下流で決定的な役割を果たすシグナル分子の単離・機能解析という仕事につながり,さらに肥満細胞に発現するMISTというBASH類似分子の単離を通してアレルギーの研究という形で展開してきている.一方,当初の目標であるファブリシウス嚢という免疫システムの全体像の把握という点に関しては,まだまだ苦難の道が続きそうである.

 

自己紹介の意味も含めこれまでの研究経緯について紹介させていただいた.世間の流行はどうであれ,免疫学の奥底には,摘んだ途端枯れてしまうような,視えるものにしか視えない「不可視の青い薔薇」が咲き続けているように思える.はなはだ心許ない限りではあるが,目で視ることをやめ,手で摘むという手段を放棄してでも,それが自分の傍らに咲いていることに気づける程度の皮膚感覚だけはこれからも持ち続けていたいと思っている.

 

      (日本免疫学会ニュースレターより)

 

The depth of Ryo Goitsuka