金沢21世紀美術館
設計: 妹島和世+西澤立衛
所在地: 石川県金沢市
竣工年: 2004年




 

 金沢の「21世紀美術館」にも、小布施から出かけた。

 町営「森の駐車場」の基本構想・基本計画・監修を進めるにあたって、最も参考になる事例の一つだったからである。ここでは、とくにトイレと物販スペースを内包する管理棟のたたずまいを、どう決めるかが課題だった。大きなかたちにまとめるのか、できるだけ部分空間に分けてそれを統合する構成とするのか。土、木、瓦などのいかなる材料を使うにせよ、透明感や軽快感をどう出すかも、重要課題であった。光や風が通り抜ける公共施設とは、どのように構成されたものか。ぜひ、21世紀美術館に学びたいと思った。

 そして、昨年末から町立図書館(交流センター、設計者は古谷誠章氏)の検討を始めてみると、決してそのまま模倣するわけではないし模倣しても問題は解決しないが、その思考において、21世紀美術館には参照すべき点が多いことに、改めて気付いたのである。 町立図書館の近隣には木造家屋が多い。駅前にあって、「小布施」を体験する交流センター的な役割も果たす施設であるから、土蔵のような建築が路地や小広場を介在させながらグループをなす「修景地区」(小布施中心地区)と、あまりイメージがかけ離れているのも好ましくない。訪問者はまず、ここで小布施と出あうのである。だから、小布施にいるのだということを何気なく感じさせる建築であることが望ましい。

 分棟させ、しかも分棟された部分空間のスケールをできるだけ抑えて、集落的状況をつくり、既存環境との連続性、一体性、そして共生を図る。周辺が住宅地でなくとも、人がつどい憩う場所(たとえば緑地公園、森のような駐車場)であるならば、建築本体はできるだけヒューマン・スケールであることが望ましい。人がつどい憩う場所に接近させて巨大なヴォリュームやそそり立つ建築を配するのは、根本的に間違いである。それだけで十分に抑圧的となり人の心に不必要な緊張を呼び起こして、どんなに工夫しても建築本体からも周辺空間からも本質的な美点を奪い取ってしまう。

 この点において、21世紀美術館の設計者が「既存環境の雰囲気とつながるような」新たな場を求めているのは最も重要な点であって、実際にこの美術館の前に立つと、その思いがストレートに伝わってくる。

 21世紀美術館は、どこからでも入ってゆける点でも、まさに集落のようだ。路地を歩き回り、ところどころ中庭があって、ぱっと明るく空への視線が開ける。路地的な通路空間を歩いても、白いハコの展示空間の内部を歩いても、空間の質にそう大きな変化がない。のびのびと、自由に歩き回れる建築である。しかも、のびのびと自由に歩き回るだけで、十分に楽しい。これが、街の魅力であり集落の魅力というものであろう。それで十分に心は満たされ、次への展開に心が浮き立つのである。

 こんなに心地よく歩き回れるのも、実は、設計者の並々ならぬ配慮があってのことなのである。西澤立衛は、ハコのような部分空間の配置について、「言葉にしてみれば、大小の箱が集合する風景、の一語にすぎないことが、実際にやってみると、その一語から、すごくつまらない集合の風景と、魅力的な風景と、両方出きてしまうのだ。また、箱の位置をちょっと変更した途端に、たいへん印象的な風景がつくり出されるときがある。つくり出されないときもある。風景というのは難しい」(『建築について話してみよう』、122頁)と語っている。そして、当然のことながら、たとえ部分空間であっても、周囲を取り囲む既存環境との関係を検討しなければならない。21世紀美術館はオープンな敷地の真ん中に置かれた建築なので、場所のコンテクストとは切り離され、美術館という内部が要請するプログラムからのみで設計されたかのように感じられるが、実はまったく逆なのである。西澤は、「建物の形だけではなく、周辺の建物や地形の中で、どのような形であるべきかということが問題になっていった。そのようにしてスタディの主題が、平面から立体へと移り、平面幾何学的問題から建物外形、もしくは環境の中での建物のあり方へと、移っていった」(同、119頁)と説明している。良く見ると、高いヴォリュームが部分空間の集合の中央部に集められて、周縁部にあって外の広場に集う人々に威圧感を与えるのを、巧みに避けている。

 このように部分空間をどうつくり、部分空間同士にどう緊張した関係を生み出してゆくかというのであれば、「グループフォーム」という概念を用いて、長年にわたって部分空間の好ましい関係を探究してきた槇文彦が、優れた解をすでに示しているように思われる。

 妹島和世と西澤立衛の建築のもつ驚くべき新しさは、集落のような部分空間の集合をさらに大きく取り囲む円形のガラス壁の採用である。これこそが、ロバート・ヴェンチューリが著書『建築の多様性と対立性』のなかで繰り返しその必要性を説いた「ディフィカルト・ホール(difficult whole)」である。これは、「内」から出てくるというよりも、「外」への対応という要請から決まってくるものである。「複雑な全体」という和訳が当てられるが、本来の意味からすれば「困難な全体」が正しい。「外」に対する意識のないところでは現れない、無いままに済ませることも少なくない、獲得すること自体に困難がともなう「全体」である。

 この「全体」の形態が21世紀美術館の場合、正方形ではなくて円であることについては、妹島と西澤がいろいろなところで説明しているので、ここでは省略するが、ヴェンチューリが例に挙げるル・コルビュジエのサヴォア邸の場合は、機能から決まってくる内部の部分空間群を包み込む「全体」は、正方形の外壁である。内部は、住宅として必要とされる機能・スケール・プライヴァシーなどによって決まる。それに対して、この外皮を決定するのは、この家が置かれる場所と周辺の町の状況である(伊藤公文訳『建築の多様性と対立性』、132頁)。ティヴォリにあるハドリアヌスのヴィラの「海の劇場」では、周囲を同心円状に壁と列柱が囲む。ヴェンチューリは実に多くの例を挙げて考察しているが、その考察の最後を、「内部と外部の相違を認識することにより、建築が再び都市的観点から見直されることになるのだ」と結んでいるのである(同、162頁)。

 「困難な全体」は、生き生きとした部分によって構成される「内部」のない、単なる大きなかたちではない。それは、似て非なるものである。生き生きとした個を大切にする近現代社会を投影した多様な「内部」をもちながら、「まち」「都市」「既存環境」といった「外部」を強く意識するところから、その「内部」を最大限に生かしつつ注意深くもたらされるのが、「困難な全体」である。

 そのような「全体」を求めて格闘するのが建築家の「責務」だとヴェンチューリは書いているが(同、第10章)、21世紀美術館の二人の設計者も同じ思いのようだ。

 妹島が「金沢(21世紀美術館)の場合は、ガラスはない方がいいと考えたところもちょっとあった。外周部がプログラム上外部でもあり得るのなら開けていたと思います。初めはどこからでも入れるような軒先みたいなものを考えていたんです」(前掲書、147頁)と語っているのは、この「困難な全体」が実に微妙な存在であることを示すものである。

 具体的な現象形態がどうであれ、妹島と西澤の思考には、この「困難な全体」が見事に捉えられている。繰り返すが、「困難な全体」は、単なる大きなかたちではない。「外部」の要請、というよりも、建築を含む場全体を吹きぬける風、その場を満たす自然の光、そういったものをどう建築化するか。この厄介だが楽しくもある課題を建築思考の中心に置いているところが、「21世紀美術館」の最も21世紀的な点であろう。    

(2008年 1月 9日 記)

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