海の博物館
設計: 内藤廣
所在地: 三重県鳥羽市
竣工年: 1992年




 

素形を都市で考えると
 川向 内藤さんは、いま東京大学の土木工学科の教授です。今日は、建築と都市、あるいは建築と土木の間をどういうようにつないでおられるのか、といったところに焦点を合わせてお話を伺いたいと思っております。
 内藤さんの歩みを簡単に振り返ると、まず「海の博物館」(1992年)があります。これは本当にいい作品でした。時代を見事に表現する名作でありました。その後、90年代後半の「安曇野ちひろ美術館」、「茨城県天心記念五浦美術館」、「十日町情報館」、高知の「牧野富太郎記念館」と続きますが、いずれも大作です。それ以前は住宅と小さな美術館ぐらいで、突然開花したように大作群を一気につくってこられたわけです。
 大作群に共通するのは、敷地周辺の自然・歴史的環境、気候風土、内部機能といった、非常に複雑な内外の諸条件を読み解いて、そして作品にまとめ上げていくという、そういうある種の力技みたいなもの(笑)、でしょうか。
 そのような中で、内藤さんは、地域主義というか、地域あるいは場所のもつ特性をどう建築の中に生かしていくかという、そういう視点を持っておられたような気がします。このことは、意識してやる部分もあるけれども、むしろ内藤さんの中にある遺伝子のようなものがその場所に行くことによって刺激され、自然に振る舞う中で表面化してくるような感じでした。内なるものと外なるものが刺激し合って、形を帯びるような。
 そういう深みのあるスタンス、掘り起こしていくようなスタンスの中から、自然の山とか森とか民家の屋根とかいったものの形態、あるいは土間とか土壁といった土着的素材を直接的に引用するのとは違った作風を展開されたように思います。
 その中で内藤さんが使われた「素形」という言葉を、今日のテーマにすることにしました。もう一度、「海の博物館」の頃に出された「素形」という概念に立ち返って、お話をしてください。
ということで、テーマは「素形」ですが、あれから時間が経過した分、その理解が深まったと私は考えています。
 
土木にいった理由
 内藤 私は早稲田大学の出身で、妙な縁で東大に呼ばれた。そこで一本ねじれてるわけです。それから、建築でありながら土木に呼ばれた。二回ねじれているわけです。本当のことを言うと、建築をやめようと思っていたんですね、50歳くらいで。ボチボチやめるかと。やめるというのは、完全にやめるんじゃなくて、一回立ち止まってゼロにして、事務所も閉めて、最低一年くらい何もしないで過ごそうというので、本気でそう思っていました。
 ちょうどその頃に、東大の篠原修さんから「土木に来ないか」という話があったわけです。要するに、「海の博物館」以降やってきて、かなりの密度でやったともいえるし、自分なりの限界というのも感じてきたし、「これは一回考え方を変えなきゃ」というようなつもりで休む気だったところにきたので、それは違う分野で面白いと思ってお引き受けをしたわけです。今年でぼちぼち2年半になります。
 毎日がハラハラドキドキの連続です。建築、それもデザインをやっている人間が、土木で教えるのは、長い東大の歴史の中でも初めて、130年の歴史の中で初めて、ということは、日本全国で初めてということです。そういう状況は、篠原修という人が非常にクリエイティブだったから、できたのだろうと私は思っています。その意味で、篠原さんをとても尊敬をしています。

10年前を振り返る 
 内藤 今日は川向さんから「素形」についてしゃべれということですが、これは懐かしい言葉で、私が「海の博物館」を終わった時に言った言葉です。
 10年前ぐらいに「素形」という言葉が生み出されたときのことを、もう一回思い出そうと思います。後でスライドをやりますが、スライドをやると見た目の話になるので、それ以前の話を、今日は若い人もいらっしゃるので、聞いていただけたらと思います。
 私は1950年生まれで、1980年というと30歳。「海の博物館」を引き受けたのは、設計を依頼されたのが1985年で35歳のときです。私の30歳代というのは最悪というか、実にいろんなことに挑戦した30代でした。神様が何かのご褒美で「君、20年くらい時計の針を戻してあげるから、もう一回30代やってみろ」と言われたら、「いやです」と私は言います。そのくらい大変でした。今から思い出しても、もう一回やりたくないぐらい過酷な30代です。
 そのちょうど真ん中の時に「海の博物館」の仕事を引き受けたわけです。それはチャンスでもあったわけです。それから7年半「海の博物館」をやりました。大変難しい仕事で、ともかくお金がない。ローコストの極みのようなことをやらざるを得なかった。
 当時、日本全国、ちょうどバブルが始まった頃です。東京で建築家たちが集まると「いやー、おれは今、坪200万円の仕事をしている」とか「いや、250万円でしている」という、そんな時代です。喫茶店に入ると、前と後ろと横の席のそれぞれから、土地と建築の売買の話しか聞こえてこない。これはほんとの話です。そういう時代です。
 そのど真ん中で、坪40万円で収蔵庫を造らなければいけない。あるいはそこに展示する施設がありますが、そこは坪50万ぐらいしか使えない。わかりやすくいえば、大体4分の1あるいは3分の1ぐらいの単価で建物を造るという仕事です。それを7年半やりました。
 当然のことながら、私はその建物をやることによって、世間的な評価が得られるとはゆめゆめ思っていなかった。多分1%も思っていなかったと思います。というのは、世の中と全然逆の方向をやっていましたので、少なくとも同じような若い世代で、同じようなスタンスでやってる人なんかほとんどいなかったのではないかと思います。
 終わってみると、ちょうどバブルが弾けていた。何人かの方が見てくださって「ああ、そういう造り方もある」ということで評価をしていただいた。これはほんとに思ってもみない、降って湧いたような評価をしていただいた。そのことはとてもうれしかったのですが、時代との行き合わせというのもあるわけです。あれが一年早くできも、一年遅くできても、あのような評価を得られたとは、私は思っていません。
 ちょうど時代と建物が、7年半もかかってしまったというめぐり合わせが、あそこであった。だから、私が非常に時代に鋭敏で、時代を意識してそういうものを造ってきたかというと、その辺に関してはきわめて自信がない。私がたまたま時代とめぐり合ったということかもしれない。ただ、私自身がその7年半の間に、必死になって自分を支えていた何かあるわけです。それは当然そうですよね。世の中からほとんど孤立して、世の中とは全然違うやり方で造ってくわけですから。建築というのはものすごく迷いの多い仕事で、決断をたくさんしなければいけない。そうすると、7年半自分を支えていたものが何かあるはずで、さまざまな決断、それからデザインの方向性、そういうものを支えているベクトルの先というのは一体何になるのだろう。
 博物館ができ上がって、世の中の人に見ていただいて、ともかく説明しろというわけです。これが建築界の妙なところですよね。「お前のやったことを自分で説明をしろ」と。つまり自分で生み出したものについて、自己言及しろというわけです。これはジャーナリズム、みなそうですよね。『新建築』の文章などを見ると、建築家がすごく難しい文章を書いたりしますが、なぜ難しくなるかというと、自己言及するからです。
 自分のことを説明しろというわけです。つまり自分の無意識について語れというわけです。その時に、何せ7年半悩んできた、7年半の蓄積ですから、どうしようか。そのベクトルの向いてる先のほうに、かすかにあるような、そのベクトルの総体、いろいろな決断の、それを「素形」と呼んでみようかというのが、「素形」という言葉の始まりというか、そこにあったわけです。
 
からっぽの「素形」の誕生
 内藤 オリジナルは、文化人類学じゃないサル学、京大の今西研系列のサル学の「祖形の家族」というのを何かで読んで、「ああ、そうか」と。でも、祖先の「祖」ではない。 先祖返りの話ではないので、「そ」というのを、さまざまな意味にとれる「素」にして、それを「形」と組み合わせてみようと。最初に言ったときには、中身が空っぽだったのです、正確にいうと。
 
「素形」の意味は何なのだろう? 
 内藤 昨日、もう一回「素」というのを調べてみたら、これが、なかなか面白い。「素」という字は、白川静さんによると、糸を染色するときに、糸を束ねて藍染とかで染めるときに、糸を束ねて括る、括って染めるわけです。それを解くと括ったところだけ白く残る。そのことを「素」というらしい。だから、「糸」の上に束ねるような象形があるわけです。「なるほど、これは多分私が昔考えていたことと同じだ」。つまり、さまざまな思考を束ねたところに現れる、裸の思考というか、そういうものが「素」という。それも面白いかな、と思っています。
 これは、都市で建築を考える場合も、変わらないですよね。 

ユングの原型論との違い・・・・・・・・・・・・・
 内藤 「内藤さんの言っているのは、ユングの原型論なんじゃないか」。これは、川向さんが一時言ったことがあります。確かにそういう面もある。ただ、ユングとは、どうも違う。ユングというのは物作りではないですから、外から現象をそういうふうに言っているのですが、私は、私自身の中のことを言っているので、そこのところが、ちょっと違うかもしれない。
 川向 ユングの原型論については、また、別のところで書きますよ(笑)。
 内藤 そうですか。では、人間の深層に関する話をしておきますか。もうひとつ、世の中とシンクロするのにどういう方法があるかという話なんですが、これには、2つある。これは私がよく言うことです。電通、博報堂、あらゆる会社がマーケッティングをしますが、この時に、100人に聞きましたみたいな話かあるわけです。自動車メーカーもやりますが、世の中がどうなっているか、どう考えているかとか、それに向けて製品をつくる。これは、外に対してのアクションです。
 それに対して、もし「素形」という思考を詰めていくと、そうはならない。自分の心の中をちょっと掘ってみる。掘ってみると、私とあなたが理解できることがある。これは言語です。言葉と言ってもいいかもしれない。だけれども、もうちょっと掘ると、隣に座っているあなたと3人が理解できることがあるかもしれない。実はそう思っていた。もっと深く掘ると、この会場全体にいらっしゃる方が「そうだ」と思えるようなことがあるかもしれない。もっともっと掘っていくと、世の中の人、かなりの部分が「実はそう思っていた」というような部分、そういう鉱脈に行き当たるという考え方がありはしないか。これはさっきのマーケッティングの話と全然違う方向です。
 自分を掘っていく。自分をどんどん掘っていくと、いま現在を生きる私たち、同じ時間、同じ世界を生きているわけですから、そこに通底するような何かにぶち当たる。そこからもう一回物を造っていくと、その結果、造られた物というのは、さまざまな人の共感を得ることができるはずである。これが多分私がとった方法なのだろうと思います。今でもそうです。多分いま造っているものも、そういうやり方でやっている。私が物づくりから大分はずれてやっているような場合でも、自分自身を掘り返していく、その中で見つけたものを、もう一回返していくというやり方を常にとっていると思います。
 
海の博物館 
 内藤 お見せしているのは「海の博物館」の写真ですが、私自身、瓦屋根をやりたいとか、ローカルな建物を殊更やりたいと思っていたわけではないのです。先ほど申し上げたように、限界のコストに近い建物の造り方、なおかつ博物館ですから、建物の寿命を延ばしていく、この二つのことをやると、必然的にある結果に結びついていくわけです。これは海の近くですから、金属板では葺けない。金属板でやるんだったら、チタンか鉛でないと、とてももたないわけです。
 そういう中で、例えば、瓦という素材に注目すると、意外と塩害性能がよいということがわかったりして、「では、瓦を使おう」と。
 瓦ということを決めると、瓦は江戸300年で完成したディテールですから、揺るがせにできないわけです。瓦という素材を決めた段階で、そこから逆算されるベストの解があるわけです。そこに戻ってくると、こういう形になります、というのが「海の博物館」です。
 これは今でも忘れないというか、「海の博物館」をやる前に、2、3日伊勢志摩地方を旅行しました。その時に、大王崎という所に行きました。そこは石垣で有名な所ですが、そこを歩きました。実際には、こういう景色はありません。私が旅館に帰って描いたスケッチです。大体私は、できるだけ、こういうやり方をするようにしているんですが、目の前の物を描かない。目の前のものを記憶にとどめて、全く違う場所で描くということをします。これは精神力が要るので、いつもやりませんが、時たまやります。今見ているものを、次の瞬間見られなくなると思って見ると、意外と人間の脳というのは、記憶にとどめる、頭の中にとどめる。これは学生諸君にも勧めています。目で記憶するということです。それで描いたもので、幾つかの景色を組み合わせて描いています。類似しているなにがしかが見えてきます。
 これは全体の配置の模型です。上のほうで寄って集まっているのが収蔵庫で、これはPCのポストテンション組立工法で造っています。下のほうのハの字形のは、大断面集成材の木造の建物でやっています。
 平面図です。
 屋根を確保してから、つまり塩害というものに対して屋根を確保してからは、できるだけ新しいテクノロジーで造ろうとしました。というのは、博物館の館長から「真ん中に柱を立てるのは嫌だ。できるだけフレキシブルな空間を提供してくれ」と頼まれたので、そういうふうにしています。
 これは収蔵庫のディテールです。今から考えてもよくできたものだと思います。これは金の話ばかりしていて賤しいようですが、坪41万円。鹿島がやりました。普通でいうと、よく鹿島がやってくれたと思います。終わった時に、現場所長に「すみません、随分赤字出したでしょう」と言ったら、「いや、大丈夫でした」と言ってくれたので、鹿島が大赤字を覚悟でやったのではなくて、ほぼリーズナブルな値段でできたと聞いています。
これは収蔵庫をやる前に、喫茶店で、ファミレスのナプキンに描いたスケッチで、残っているスケッチはこれだけで、ほかにあまりないのです。建物を建てる前に描いたスケッチにしては、よく似ているなと思います。
 これは出来上がったものの内部です。
 この建物を一生懸命造ったんですが、一番強く感じたことは、日本が大きく変わったということです。そして、ここの中に収蔵されている船。
 これは出来上がってしばらくして撮った写真ですが、今は、もっと収蔵された船の数が増えています。私たちが子供の頃は、近場の浜辺に行くとゴロゴロあったようなものです。それが60年代にFRP船に変わり、網はナイロンロープに変わり、漁船にはエンジンがつき、日本の60年代というのは非常に激しい変わり方をした。つくづく、そういうことを感じました。
 いまお見せしているのは、ほとんどが重要文化財です。わずか20年前、30年前に身の回りにあったものが、重要文化財になる日本の文化、そういうことです。それを受け止めるような建物を造ろうという気持ちで、私はこの仕事に取組みました。
PCのポストテンション組立工法です。大変よくできている。PCというのは、なかなか、きれいにいかないのですが、私はいまだに思いますが、PCのポストテンション組立工法では、おそらく精度の点でも仕上がりの点でも、これが一番きれいなのではないかと思っています。
 組立図です。大体こうやって組立てます。
 これは断面ですが、ウネウネしているのは、ポストテンションのケーブルです。非常に複雑です。これも説明すると1時間ぐらいかかりますが、非常に高度で複雑な組物です。
 これは構造だけ出来上がった時の写真です。ほんとのことを言うと、「海の博物館」の館長も、あまり信用してくれなかったと思うんです。若い建築家が、一生懸命やってるのはわかっているけれど、若い建築家の力量は、さして信用していなかったと思いますが、この架構が立ち上がった時に、何かが変わりました。博物館の学芸員の人も、ようやく理解してくれた。その瞬間が思い出されます。
 何も入っていない構造体の時です。
 これは組み立てている時です。
 ほんとにこの時は、現場もみんな一生懸命で、いい現場でした。先ほど申し上げたように、私の「素形」という考え方につながるかどうかわかりませんが、当時は、年配の方は思い出していただけるとわかりますが、それぞれ日本全国の地方都市に、職人刈りといって、職人を引き抜きにいくわけです。高い金で雇うからというので、都会に職人たちが吸い上げられていく。そういう中でも、何とか地方都市に残ろうとしていた職人の、けっこう腕がよくて、志のある職人たちがいたわけです。そういう人たちが、寄って集まって造ってくれたのが、この仕事だと、今でも思っています。
 建て方をやっているところです。建て方は三重重機という会社がやってくれました。
 これはポストテンションの穴ですが、穴の向こう側に火星みたいに赤いのが見えていますが、大体40m先です。これを通さなきゃいけないんです。ですからミリ単位でピースができています。こんな建物はないですよね。鉄骨以上の精度でできています。
 展示棟です。収蔵庫を造るのに大体4年かかり、展示棟を造るのに3年半かかっています。これが展示棟です。この時は集成材をどうやって、手なずけるかというので四苦八苦しました。今となっては、集成材の建物はたくさんありますが、こういう形で集成材を使ったのはほとんどなかったと思います。なおかつ、それまでの集成材は、塊で使う、要するに、建物でいうと肩の部分の曲げ応力を塊で処理するということをやっていました。どうもそうじゃないんじゃないか、もっと違うやり方があるのではないか、ということで、渡辺邦夫さんと一緒にやったのが、この仕事です。
 これはその時の構造模型です。これについて説明すると長くなりますが、今日の話に展開するように言うと、その都度構造的な整合性を何とか考えていく。構造的に合理性を獲得するとか、構造の中に美しさを見出していくとか、そういうような気持ちが常に私の中にはありました。 その理由は、さっきの瓦を選択したときと同じで、性能的な視点にあります。エンジニアとして筋を通したい。つまり情緒的なリージョナリズムに陥りたくないという気持ちが常にあって、それは素材を扱う時も、構造を扱う時も、常に私の気持ちの中にあることです。
 
どれくらいの時間を考えるか
 内藤 いつも考えることは、時間のオーダーのことです。
 いま私がいま抱えているプロジェクトで長いものは15年かかっている。旭川の場合、今から8年後、ほかの場合は7年後ぐらい、つまり長いんですね。非常に長い。建築家が普通考える3倍ぐらいのオーダーで、その完成までのプロセスは「海の博物館」の状況と似てなくもない。
 それから、当然その構造物自体が生きていく時間も長いわけです。たぶん建築家の方は、かなり大きい建物を設計しても、30年から50年くらいのオーダーで考えているとすれば、土木構造物の場合は、今から造るものっていうのは100年単位で考えるものです。
 そうすると、その時間的な長さの重みに耐えるような、一つはハードウエアとして持たなきゃいけないわけですけど、片一方でデザインの質、要するに、形のあり方として、その時間の流れを受け止めるだけのもの、つまりその時間を経る中での共感を得られるものというふうに考えなければならない。そうすると、つくれる可能性は比較的限られてくるわけです。
 例えば、いま私が思いっきり面白く話題性のある建築をつくったとします。それは、恐らく3、4年のオーダーでしか担保されない、その生み出す価値は。だけど、じゃあ100年といったときに、どういうことを考えるかというのが、私の基本的なスタンスなんですね。100年というと簡単なようですけど、今から100年前というと1900年ですよね。日本はまだ日露戦争をやってない。
 
「骨格」と構造体
 川向 表層的な形ではなくて、内部のストラクチャーに関心が収斂していくということは、スペインの若い時代に受けたトレーニングと何か関係がありますか。
 内藤 あるんでしょうね。多分あると思います。私が仕事をした先はフェルナンド・イゲーラスという人で、今はもう誰も知らないけど、その当時はけっこうインターナショナルに有名だった人で、フェルナンドは、主構造になっていない、リブ状の装飾に近いのをやっていた。それは、もとはガウディなんですよね。ガウディの構造体に対する考え方に、フェルナンドはわりと影響を受けていた。私はガウディを見にいって、ガウディを一つの構造体として見ていたというところが、要するに、ぐにゃぐにゃのデザインではなくて、ああいう有機的な形体が内部の構造によって支えられているというのが気になっていて、そういうものを見ていたということ。その中には放物線アーチというのがあって、放物線アーチというのは素晴らしいなというふうに思っていたというのが、物づくりの起点として、多分あると思います。
 川向 でも、内藤さんが「構造体」とか「骨格」というとき、必ずしもモノとしての「構造」だけを意味していない。むしろ、その成り立ちそのもの。たとえば、ガウディだと「放物線アーチ」に行き着くような。
 内藤 以前、建築を整理して考える機会がありまして、建築というのはどういうことなのかなと。建築そのものの構成ですね。その時に、普通で考えれば、構造、設備、意匠と分かれるわけです。見積書だって何だって、みんな、そうなっているわけです。この3つを考えてみると、基本的に構造とはなんぞやと言われれば、1Gの重力に対して、地球上の物質を再構成して人間が使える場所を造る技術というのが構造だというふうに考える。設備は何かというと、そこで水分65%から70%の人間という生命を維持するためにさまざまなものが必要です。水が必要だったり、エアコンディションが必要だったり、さまざまなものが必要だ。それをサポートするのが設備だと。それから、意匠というのは何かというと、人間は脳化された動物ですから、目から入ってくる情報や、人間が人間たるべき、動物とは違うさまざまな要素を備えていて、それに対応するのが意匠だと、こういうふうに乱暴に分けたことがあるんです。
 それで、長い時間の経過の中で、それぞれ違う時間のディメンジョンをもっていると考えたんです。廃墟を見てみれば、よくわかる。あそこに残っているのは、最終的に物質になる直前の構造体ですよね。多分、構造というのは、時間のディメンジョンが一番長い。設備がその次。意匠というか、その表面というのは、場合によっては長い場合もありますけども、ほとんどが消費される速度が非常に速い。究極が、デジタルな世界ですよね。
 そう考えると、意匠というのは、ある意味では更新される。この考え方はメタボリズムとちょっと近いんですよ。つまり、メタボリズムというのは、設備のディメンジョンまでしか言わなかったけれども、そこにもう一つ、意匠のディメンジョン、情報化社会のディメンジョンを差し込むと、メタボリズムをもう一回やれるかも、というような気分も若干あったんですね。
 構造のディメンジョンと設備のディメンジョンは違うのだから、それを考えようというのが、基本的にはメタボリズムなわけですが、そこにもう1つ、情報のディメンジョンを入れたらどうかというふうに、私は考えてみたことがあります。
 そう考えると、構造というのは最終的に、その建築なり場所なりを支える、あるいは担保する価値なのだから、それだけはきちんと造っておこうというのが、私の気持ちとしてあります。
 
テクノロジーの位置づけ〜「場所」の「手触り」から?
 川向 「海の博物館」を発表した時に「屋根は塩に強い伝統的な瓦葺き、一方、建築の構造は最先端のコンピュータを使って、最先端の技術で出来上がっています。」と書いておられる。
 内藤さんの建築の場合は、いつもそうなのではないかと思いますが、条件が厳しいからこそ、最先端のテクノロジーを導入するということになるのかもしれない。のんきに、昔の技術をもう一回再生する。そこに必然性があれば、やればいいんだけれども、新しい状況が加わって条件がものすごく厳しかったら、むしろ新しいテクノロジーを積極的に導入したほうが自然な対応だということもあり得る。内藤さんの建築がもっている緊張感、あるいは内藤さんの内面的な緊張感も、まさにそこにあるような気もするわけです。もともとテクノロジーの進化自体がこうして進化する。そのテクノロジーがどこに現れるかというと、内藤さんがあえて漠然と「シェルター」とも「骨格」とも呼ぶところに現れる。なにか、全く新しい成り立ちを生むところです。テクノロジーを導入することによって、それがフレキシブルに変形して、複雑な条件に対応する一つの解が出てくる。
 内藤 テクノロジーというと無人称のように思われますが、私は誰のためのテクノロジーかと考えたときには、一人称になるのではないかと思っています。
 本当はクライアントが建物を建てるわけですが、私は私なりに、自分で建てているというふうに思い込んでいる。しかし、私のテクノロジーに対する知識がゆえに、私に頼まれているわけではなくて、その先にあるよくわからないものについて、私はクライアントから委託を受けているという気がしているんです。それは、私自身が持っている空間に対する「手触り」みたいなものでしょう。多分面白おかしい形を造る能力ではなくて、空間に対する「手触り」に関して信頼をおいてもらっているんだろうという気がします。
 そこで「構造」が出てくるわけです。その場合に、「手触り」によって、最終的にわずかな構造に対する「揺らぎ」、要するに、合理性に対する「揺らぎ」のようなものを与えていることは確かです。つまり完全に合理性だとか経済性だけではつくっていない。そこには私の主観というのが必ず混ざり混む。
 それから、本質的な話に入っていくと。ここのところはしばらく、渡辺邦夫さんと仕事はしてないのですが、かなり初期の段階では、構造についての基本的なディスカッションを渡辺さんとよくやりました。ストラクチャーエンジニアは、応力解析をやるわけです。だけども、渡辺さんと話をしたのは、たかだか3つぐらいの応力を自然界から抽出してきて、それを再構成しているだけじゃないか、それで壊れないと言っているのがストラクチャーエンジニアだ、と。しかし、自然界の力というのはシームレスであって、実際は軸力と曲げ応力の中間みたいな力だってあるはずだ。だけど、近代的な知というか、知識、知の組立てというのは、きれいに剪断と軸力と曲げ力を抽出して、純粋に抽出して、それを再構成したりしている。それが構造のエンジニアリングだと言い張るのであれば、近代的知というのは、あまり大したことはないと言うわけです。
 半年ぐらい前に、川口衛さんから教わったのですが、トロハは「解けないけど、壊れない」と言ったそうですね。つまりトロハは、その当時、彼自身の提案するシェルターが解けなかったらしい。解けないけども、壊れないだけの実験をやって壊れない。だから問題ないと。
 つまり、構造体にも直観に支配される部分というのもあるわけです。技術が進歩して、今ではトロハのシェルターは解けるかもしれない。その可能性だって、ないわけではない。そうすると、その辺になるときわめて哲学的な領域に入って、コンクリートとはなんぞや、コンクリートというのはどういう材料なんだと、そういう本質的な問い直しをしなきゃいけない。木を使う時は、木材というのはなんぞや、あれはセルロースの束だというふうに考える。それから、スティールを使う時は、スティールというのは何だという、そこのところから構造をもう一回考えてみる。大体私がエンジニアと仕事をする時は、一回そこまで戻ってもらうというやり方をして、ディスカッションをして決めていくということが多いですね。
 場所はそれぞれ違いますから、最適解も違ってくる。場所のもっている性質も歴史もそれぞれ違うわけですから、モダニズムとは逆ですね。ベストなものはあらゆる場所に適応可能だというのがモダニズムのベーシックな考え方だとすると、私は逆に、その場所場所のもっている性質のようなものに対して、最適解を提案する。それから、構造に関しても最適のものを適応する。ただ、おっしゃることは分かるわけですよ。そこに主観が入るじゃないか、適応するのは私だから、こういう話もあるわけですね。       

(文責:川向正人 2004年1月7日掲載)

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