自分にとって教育とは何か?

 

文京区立汐見小学校 家庭教育学級パネルデスカッション

「家庭教育は死んだか」資料より

 

10年近く大学で、一応「先生」という肩書きで働いている。教育なんてまともに考えてみたこともなかった。不謹慎といわれれば、そうかもしれない。少なくとも教育するという意識は希薄だし、教育というのがなんなのかよくわからないが、教科書に書いてあることは本人が読んで自分で学習すればいいというスタンスで生きている。教える必要ない。教科書に書かれていないことや教科書と正反対なところで生きているので、返って教科書的な脳みそは邪魔である。どう考えるか、考え方、悩み方を教える。というより、いっしょに悩む。いっしょに生きる。それを個人的な悩みからもう一段深い学問の段階にもっていく。論文を書く、議論する、いっしょに試行錯誤する。まったく世のため、人のためにならないかもしれない。そんなことははっきりいってどうでもいい。偽善者にやらせとけ。失敗することもあるし、うまくいくこともある。何が成功で何が失敗かわからない時さえある。うまくいったら一緒に喜び、失敗したらなぜ失敗したか考え、その責任くらいは自分がとる。夢をみるにはそれなりの危険を覚悟しなきゃならないのは当然である。だから、「学生と教師」なんて嘘っぱちな関係じゃなく、ひとりの人間と人間、研究者と研究者として接している。戦っているといったほうがいいかもしれない。学生には「俺と勝負してみろ、文句があるなら俺を越えて見せろ」といっている。もし教育というものがあるとするなら、大学だろうが、小学校だろうが、家庭だろうが、そういうものだと思っている。だから、自分の子供に対しても、大学生と同じように対応するのが自分のやり方、「教育」である。

 

書かれた教科書や参考書はわかりやすいように(もっともらしく)整理されている。情報とは単純系である。しかし、なまもの、現実は整理されてなんかいない。「早わかり、これを読めばもう明日からあなたも大丈夫」なんて本を読むくらいなら、国語の辞書を「あ」から「ん」まで全部読んだ方がまだ、ましだろう。複雑な現実に対応するマニュアルなんてものはないんだから、頭が単純な情報収集に慣れてしまっては、不条理な現実から「夢」や「希望」を抽出できるはずもない。それなのに、世の中の教育は、現実を単純な情報に一元化し、それを複合することを基本にしているようにみえる。良いものと悪いもの、きれいな物と汚いもの、そういう単純な振り分けからはリアルな現実の実体が見えてくるはずもない。だから、わかりやすい教育なんてお笑いである。割り切れない円周率がさも割り切れるような情報に単純化されてしまっては、それは何も教えてないに等しい。御偉い東大出の教育庁の誰かが考えそうなことである。まだ、八百屋のおじさんや薬屋のおばさんから人生や日々の生活を教わったほうが、子供にとっては有意義に違いない。つまり、現実、言い換えれば、混沌の中にしか、彼らの学ぶものはないということで、こちらが道筋を作らなくても、彼らはその中から無限大にいろんなものを拾い出してくる力がある。子供をなめちゃいけない。寺山修司の言葉を借りれば、「書を捨てよ、街に出よう」ということである。彼らに必要なのは街の地図じゃなくて、地図に書かれていない薄暗い路地裏や小さい空き地のほうである。また過剰な保護は裏返せば、現実からの隔離と同じで、そういう状況下では、単純で一見わかりやすいバーチャルな情報に中毒したおたく野郎になってしまうのは目にみえている。

 

話がだんだん支離滅裂になってきたので、最後に家庭教育について少し触れる。妻という、ちょっと前までは自分と全然別の人生を送ってきた女性、そして偶然なんの因果か奇跡的にそこの子供として産まれてきた男の子や女の子、そういう、はっきり言ってしまえば「他人」同士が家族という関係で生きている世界、それが家庭。親しき仲にも礼儀ありじゃないけれど、家族といえども、お互いが尊重すべき「独立した個人」であるということを忘れてはいけないんじゃないか。なぜかといえば、子供は、現実社会の中で、いろいろな他人と関わり合いを持ちながら成長していくわけで、彼らが最低限知っておかなければならないこと、それは「人間はみんなひとりである」ということと、にもかかわらず「人間はひとりでは生きていけない」ということにつきる。ひとりの人間としての「個人」という認識がなければ、学校や社会で個人対個人という関係性を築いて行くのは不可能で、それを最初に子供が学ぶのが家族という関係ではないだろうか。あまりにも自分の近くにあるものは、往々にして、もっとも見えにくいものだったりする。

                      The depth of Ryo Goitsuka